カウントダウン・ヒロシマ

カウントダウン・ヒロシマ

カウントダウン・ヒロシマ

 原爆投下にまつわる話にはいろいろな説や解釈がある。真実は明らかではない。はっきりしているのは広島と長崎に原子爆弾が落とされたということだけだ。
 本書を読み終わった時、原子爆弾の是非や、戦争に対する考えや、当時の日本とアメリカ、そしてソ連や英国の行ったことについての解釈よりも、そして恐ろしさや悲しさ、苦しさと言った感情よりも、ただ「原爆とはいったい何か。原爆投下とはいったいなんだったのか。いったい人間は何をしたのか」という単純な疑問が強く湧いた。
 被害者や加害者、戦勝国、敗戦国などという属性を越えて、「いったいなんなのか」という驚きに近い感情が広がる。
 本書は最初の核実験から広島への原爆投下までの数日を、原爆の制作に関わった人々、実験に関わった人々、原爆投下に関わった人々、広島で暮らしていた人々を通して描いたドキュメントである。
 彼らの行動を丁寧に追いながら、著者はどのような評価も与えていない。若干、抑えられていながらも気持ちがかいま見える部分もあるが、おおむね客観的に書かれている。淡々と時間は流れていき、人々は黙々と与えられた仕事をこなしていく。
 それ故に、そのときが来ることを知っている人、知らない人の上に等しく流れていく時間の経過に息が詰まってくる。
 天地をひっくり返すような大きなプロジェクトに関わる人々の仕事ぶりや、彼らの意識や誇りや責任感や苦しみ、その先にある達成感に触れることは、ある種の高揚感や爽快感をもたらす。
 しかしそれが原爆投下というプロジェクトであるなら、その先にあるもの、その一つ一つの行動がもたらした結果を思い、混乱する。その先にあるものを、すでに行われてしまった出来事とわかっていながら、わかっているがゆえに、どこかで流れが変わることはないのかと願いながら読み進めていく。
 原爆に関わった多くの人々のほとんどは、このドキュメントの中で特別な人として描かれてはいない。広島で暮らす人々と同様に、ただ与えられた責任を全うしようとする。
 この描き方ゆえに、呆然とさせられるのかもしれない。何故このような地獄がいきなり現れたのかと戸惑ってしまうのだ。普通の人々が、生き、仕事をしていく日常のいったいどこに、この地獄が出現する理由があったのだろうと、いったい何が起きたのだろうかと、ただ呆然とする。
 感情をそぎ落とし、どちらの側にもよっていない著者の描き出す世界の中に、ただ「原爆とはいったいなんなのか」という、根本的な疑問だけが投げ出されている。