三国志・七/北方謙三

三国志〈7の巻〉諸王の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈7の巻〉諸王の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

 三国志はおおざっぱに二つの流れがある。一つは正史ベース、もう一つは演義ベース。正史というのは歴史書であるから、それをベースにすると概ね歴史に忠実な展開になる(正史と言っても史実であるとは限らないが)。三国志演義というのは後世に、大衆受けするように脚色が加えられたもので、日本で流布している三国志演義ベースが多いらしい。また演義は蜀寄りの作者により書かれたものなので、蜀の登場人物を中心にして良く描かれているという。
 北方版は演義ベースではないので、三国志で有名なエピソードが出てこない。私は吉川版や、それを元にしたNHKの人形劇、柴連版しか知らないので、北方版は色々新鮮である。
 七巻では三国志の山場、赤壁の戦いを描いている。演義ベースの吉川版の孔明は神がかり的な天才で、三日で十万本の矢を調達したり、祈祷によって東南の風を起こしたりし、赤壁の戦いの中心にいる。曹操が大敗して敗走する際、蜀の武将の追討を受け、最後に関羽が立ちはだかる。曹操は死を覚悟するが、関羽曹操から以前に受けた恩義のために見逃す、という有名なシーンもある。
 しかし北方版の三国志ではこれらのエピソードは無い。大袈裟な演出も無い。奇抜なエピソードも無い。特異な人物もいない。けれどドラマティックである。前巻に続いて孔明は若々しく人間的に描かれているように、登場人物が皆時に強く、時に弱く、人間的であり、その人物たちの絡まり合い、繋がり合いが胸を揺さぶる。
 孔明は呉に同盟を求めに行き、かつて彼自身が胸の奥でくすぶっていたものを劉備によって燃え立たせられたように、言葉によって孫権が心の奥底に押さえ込んでいたものを刺激する。その後の彼は、周瑜の戦術、戦略を全て見通しはするものの、この戦いにおいては傍観者となる。しかし、傍観者でありながら、異能の存在感を残していく。
 しかし人としての孔明は、計が成功し、天下分け目の戦いが幕を開け、緊張が頂点に達した時に、劉備に落ち着くようになだめられたりする。戦いを前にした孔明の若々しさと、対照的に百戦錬磨の劉備の落ち着きが良い。頼れる大人としての劉備は父性的で、長く苦しい坂道を上り続けてきた男のたくましさを感じさせる。ただ、担がれてきただけではなく、己の足で歩き続けてきた人間の厚みと重さがある。
 同じく異能の才を持つがゆえの周瑜の孤独に触れて、孔明にかける劉備の言葉が暖かく、胸を打つ。
 この巻は特に、老い始めている世代と、新しい若い世代の対比がいくつも描かれている。曹操劉備関羽がしばしば自分の年齢に思いを馳せる。一巻から彼らと共に物語を追いかけてきたゆえに、その老いが寂しくもあり、特に主の夢がまだまだ遠いことに焦燥感を覚え、荒れる関羽に胸が痛む。
 その関羽へかける劉備の言葉がまた良い。そして鬱屈する関羽へ、世代を越えて引き継がれたすばらしい贈り物が届けられる流れが心憎い。
 張飛趙雲など、戦略も戦術もわからない武将たちが、長年戦場に身を置いてきた経験で、その時が迫っているのを肌で感じ取るシーンなど、彼らには彼らの、劉備には劉備の、孔明には孔明の、それぞれが持つものを光らせて、戦の火ぶたが切って落とされるまでの緊張感と静かさに息をのむ。
 かたや魏の曹操は記録的な大敗により、しばし放心状態となる。戦の前から、彼は随所で何か引っかかるものを感じ続けていた。引き返す機会はいくつもあり、考え直すチャンスもあった、予兆のようなものを感じていながら大きな流れに巻き込まれ、飲み込まれておぼれる。
 何か燃え尽きてしまったような虚脱感にとらわれた曹操は、前の巻では魏の中にあっても皆をおいて一人突進していく感じだったが、負けて足を止めたことにより、周囲の人間が追いついてくる。
 特に、赤壁から逃亡する際の許チョとのやりとりはたまらない。ただ無心に曹操を守り続ける許チョ、そして彼に全てを預ける曹操。後日、月の光を浴びながら、生きることの苦しさと死への想いに囚われながら詩を謳う曹操とそのそばに控える許チョ二人の静かな場面は忘れられないものになりそうだ。
 そして終盤、三国志後半の主要人物、司馬懿が登場する。孔明と並び立つ男に、曹操は禍々しいものを感じる。これまで、彼の勘は当たり続けた。不穏な空気を残して、七巻は終わる。すばらしい七巻だった。しみじみ、この本を読む機会を持てたことを嬉しく思う。
(10)